歴史と概要 新発田重家と上杉景勝の抗争 2

ページ番号1005180  更新日 平成30年3月28日

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重家の謀反

フロー図:

天正7年(1579年)、新発田長敦が病死し、その名跡は弟の重家が継承します。そして、御館の乱の論功行賞で恩賞が与えられなかったことに不満であった重家は、いつしか、景勝に対する謀反の道へと進んでいくことになります。


写真:新発田重家肖像

重家は、そのころ越中まで進出していた織田信長と結びます。甲斐の武田勝頼や会津の芦名盛隆が和睦斡旋を試みますが、天下の形勢は信長に向いており、信長勢が天目山で勝頼を滅ぼし信濃路、三国峠からも越後に進出し始めると、これに呼応するかの如く、重家は木場城攻撃を開始しています。

やがて、中立の姿勢を保っていた会津の芦名盛隆が信長に忠誠をつくすことを約し、さらには、信長勢が景勝の居城である春日山城の間近まで迫り、景勝は窮地に陥ります。

本能寺の変

天正十年(1582年)6月2日、京都本能寺において、明智光秀が主君織田信長を討ち取るという事件が起こります。有名な本能寺の変です。これにより、越後の状況も一変します。
本能寺の変を知った信長配下の武将達は、先を争って京都あるいは自分の本領へ引き上げて行きました。重家にとっては、景勝打倒が目前であったものが永遠の彼方に消え去ったのみにとどまらず、自らが滅亡の淵に追い込まれる運命となったのです。

秀吉による天下平定

フロー図:豊臣秀吉と上杉景勝、新発田重家の関係を矢印であらわしている

本能寺の変後、景勝重家への報復を後回しにして、信州や越中の失地回復に精力を注ぎます。

その後、景勝豊臣秀吉に臣下の礼をとり、越後の平定を命じられます。
これにより、景勝の重家征伐は戦国大名の領土拡張戦ではなく、秀吉の天下統一戦の一環となったのです。当初秀吉は、重家の殺害までは考えていませんでしたが、秀吉の景勝との斡旋に従わず不服従であったため、重家の首をはねるよう命じたのです。

重家の滅亡

地図

越後平定の大義名分を得た景勝は、天正15年(1587年)、重家討伐を開始します。
9月7日に加地城が陥落、同月14日に赤谷城が陥落します。そして、10月24日に五十公野城が陥落し、翌25日には重家の居城である新発田城が落城し、重家は首をはねられました。

武勇の誉れ高い重家ではありましたが、城内に内応者が出たため、景勝方の寄手を防ぎ切ることができませんでした。
しかしながら、重家方はおびえた気配もなく、軍令は正しく、その働きは景勝方も賞賛を惜しまぬ見事なものであったと伝えられています。

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