歴史と概要 溝口家の入封と新発田城の築城1

ページ番号1005181  更新日 平成30年3月28日

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越後移封令

写真:初代藩主 溝口秀勝

慶長3年(1598年)正月、豊臣秀吉の命により越後の領主上杉景勝が会津に移封されました。
その後、石田三成が検地を行うため越後を預り、同年4月2日、越前北庄の城主掘秀治及び与力大名村上頼勝溝口秀勝らが越後に移されました。

移封の際に掘秀治に与えられた「越後国知行方目録↓によれば、溝口伯耆守秀勝には6万石が与えられています。(朱印状1)


写真1
秀吉より溝口秀勝あての朱印状1
写真2
秀吉より溝口秀勝あての朱印状2

この移封に際して秀吉は、家臣は上級者から最下級の者まで全部引きつれて越後に移ること、さらには、検地帳面に登録した百姓は一切連れて行ってはいけないことを命じています。(朱印状2)

これは、大名知行制の基礎となっている田畑の荒廃を恐れたことがあるでしょうが、一方では、武士身分と百姓身分を検地帳面への登録状況によって区分し、近世社会成立上の重要な意義を担うものになりました。

新発田城の築城開始

新発田藩領内図

入封した秀勝は、とりあえず五十公野に館を設けてそこに住むとともに、新発田城の縄張りと築城を開始しました。

新発田城は上杉時代には新発田氏歴代の居城があった場所です。


領内にはこの他にも上杉時代の遺城として五十公野、水原、新津、加茂、大面などがありましたが、その中から新発田を城地として選んだ理由については、推測ではありますが、

  1. 地形的に他の諸城が、山城に類する、低湿な沼沢の間に位置している、海湾利用の便に欠くなど一長一短があるのに対し、新発田城は、新発田川の形成した広い砂礫土層の三角洲上の平城であるうえに、北部に加治川を控え、左右に深い沼沢があって防御に便である。
  2. 西北方には内島見潟が深く湾入し、これを経由して日本海との連絡も便である。
  3. その城下町は、阿賀北地方の雄将として岩船郡の本庄氏と肩を並べた強豪大名の城下町であり、他の地に比べて発達している。

などを考えることができます。

信長や秀吉の近世城郭普請を手伝い、そのあり方をつぶさに体験してきた秀勝が居城建設にあたり、この地を選んだのは当然のことでした。

入封当初に館を設けた五十公野は、羽前街道と会津街道とが交差する陸上交通上の要地でしたが、水運の便は新発田に劣り、山容は近世城郭を築くには巨大過ぎました。

こうして、安土城よりは大坂城に似た地形である新発田に本城を築いたものと思われます。

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