歴史と概要 新発田城の概要 2

ページ番号1005185  更新日 平成30年3月28日

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要塞としての堅い防御

お城は大名やその家臣の居住の場であり、政治・行政の場であり、そしていざ戦となれば要塞の役目も果たします。正に藩における最終防衛地点であり、新発田城でも少ない人数で効率よく防衛するためのさまざまな工夫がなされています。

まず、城下町の周囲は「馬足不叶」と表現されるほどの低湿地帯で囲まれており、寄せ手の軍勢は容易に近付くことはできませんでした。ちなみに、歴代藩主は、城下町周囲の開発を「御要害之場所」であるとして許可しませんでした。城の防衛に支障をきたすことになるからです。

また、城の主要な入口は枡形虎口で固めていました。枡形虎口というのは、櫓門と高麗門を併用して四角の空間を形成させた入口の形式をいい、最も防御効果の高い入口の形式をいわれています。

枡形虎口

イラスト:枡形虎口の仕組みの説明イラスト

方形の堀や土塁を配して虎口としたもので、二つの出入り口を通る仕組みになっている。

また、新発田城の防御上の弱点と思われる榎門については、その全面に大手中の門脇櫓を配し、その弱点を補っています。

新発田城は、天然の地形を利用し、さらに、普請(土木)・作事(建築)における工夫を凝らし、要塞としての堅い防御を実現していました。

新発田城は土塁の城

新発田城は、その美しい石垣でも有名です。切り込みハギと呼ばれる技法を用いた全国屈指の石垣が現存しています。

写真:現存する石垣
表門と石垣

この石垣の印象が強いために、新発田城は石垣に囲まれた城であったと錯覚してしまいがちですが、実は、石垣があったのはこの現存する部分だけで、他の部分(本丸の一部、及び二の丸・三の丸のすべて)は土塁で囲まれていました。


土塁は、堀を掘り下げるときに出た土や曲輪または館の造成、整地に伴う残土等を積み上げて造るわけですが、土塁の崩壊を防ぐため、粘土質の客土を交互に積み上げて突き固めたり、版築手法(現在の型枠に相当する板枠に、数種類の土や砂利を交互に水を混ぜながら突き固め、最後に板枠をはずして土塁の斜面を覆土し固める工法)などが用いられました。

工期が早い、建設コストが安く済む、といった利点があり、新発田城でも積極的に採用されていました。また、城地周辺が軟弱地盤であることから、石垣を積むことが困難であったことも利用に挙げられるでしょう。

新発田城と新発田川

新発田城の築城を語る上で、新発田川の利用を忘れることはできません。


写真:新発田城表門と石垣
新発田川 大栄町7

金塚友之丞氏の実証的研究の結果によれば、新発田川の本流と支流を利用して外掘をつくり、これを横に結んで二の丸、三の丸を作ったとされています。また、別に猿橋村に至る一流を掘って新しい新発田川とし、城下町の防衛線にしたとされています。

事実、新発田川の河道であったとされる場所からは過去にきれいな井戸水を得ることができました。万一籠城戦となった場合でも、水の確保には困らなかったことが容易に想像できます。
この点も、新発田を溝口家居城の地と定めた理由のひとつかも知れません。

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