歴史と概要 新発田重家と上杉景勝の抗争 1
謙信時代の新発田氏
新発田氏は、新発田地方において国人領主制を展開しましたが、戦国期になると、阿賀野川以北の国人土豪大名中で、長尾為景と対抗する最も独立性の強い存在にまで成長していました。
しかし、謙信の代となると、これに服属して軍事的協力を行うに至り、家臣化していきます。
新発田尾張守長敦は謙信への軍事的協力が顕著なだけでなく、謙信の側近に侍するようになっていて、いつしか内政・外交すら担当し、謙信政権下で重要な地位を占める家臣となっていました。
御館の乱と長敦兄弟の功績
天正6年(1578年)3月13日、謙信は関東出陣を目前に急逝します。生前、魚沼の長尾政景の次男(謙信の甥)景勝と、相州小田原の北条氏康の七男景虎を養子に迎えながら、そのいずれをも正式に後継者として確定しておかなかったため、ここに一大争乱が起きました。これを御館の乱といいます。
この景勝と景虎の争いにおいて、長敦は景勝側につき、景虎の救援のため大軍を率いて出馬していた隣国の武田勝頼との和平交渉を成功させるなど、景勝側の勝利に大きく貢献しました。
また、武功については、長敦よりも、その弟で五十公野氏に養子に迎えられていた重家の方が有名です。景勝がその活躍に歓喜の余り自ら書状をしたためたほどで、景勝の陣中において重家の武名はとどろいていたと推察できます。
不当な論功行賞
御館の乱が景勝の勝利に終わり、論功行賞が行われました。
長敦の和平工作の功労といい、重家の武功といい、新発田一族の功績は人後に落ちるものではありませんでしたが、結果としては新発田一族に恩賞は与えられませんでした。
原因は、譜代の旗本を支持する側と、外様の国衆を支持する側の間に論功行賞をめぐって争いがあり、外様側が敗れたためです。
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