歴史と概要 幕末明治維新と新発田城

ページ番号1005183  更新日 平成30年3月28日

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幕府の大政奉還

慶応3年(1867年)10月、将軍徳川慶喜大政奉還を行いました。その後の12月2日、藩主は朝廷と幕府から上京を命じられ、名代として江戸詰め家老窪田平兵衛が、一行十余名で京都に赴きました。

以後窪田は、激動する政情を新政府側に立って、江戸と国元の新発田への情報を伝える重要な役割を果たしました。

戊辰戦争下の新発田

フロー図:戊辰戦争下の新発田

明治元年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで幕府連合軍は大敗し、やがて戊辰戦争の戦火は、越後へと波及しました。同5月、東北25藩によって奥羽列藩同盟が成立しました。そして、新発田をはじめ越後諸藩にも加盟の勧誘が続きました。

新発田藩は、尊王の志を貫くために時間をかせぎますが、同盟側の執拗な要求により、やむなく加盟することになりました。しかし、新発田藩の消極的な態度に疑念を持った同盟側は6月、藩主溝口直正を人質に取り、同盟側に引きつける工作を企てました。
しかし、藩主を慕う領民は、これを阻止したのでした。その後、城下が同盟側に包囲されたため、やむを得ず藩兵を出兵させましたが、同7月、新政府軍が新発田藩領大夫浜、松ヶ崎浜に上陸したのを期に新政府軍に合流し、先鋒となって軍を進め、庄内、米沢、会津などの軍と戦いました。

廃藩置県と城郭破却令

明治4年(1871年)に廃藩置県、明治6年(1873年)に城郭破却令がなされました。これにより、新発田城は、現在現存する本丸の一部を残して破却され、その跡地(本丸及び二の丸の一部)に、明治政府の近代的兵制整備の一環として、歩兵第十六連隊が創設されました。

現在は、陸上自衛隊第三十普通科連隊が駐屯しています。

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